出会うまでは家が息苦しくてしょうがなかった。
お題「#おうち時間」
私は、専らアウトドア派だ。
休日は、家でゴロゴロしない。というか、できない。
閉所が好きじゃないのでは。
とは言っても、昔は友達の家の押し入れによくお邪魔したものである。
自分の家じゃないん?!と思った方多いと思いますが、違うのです。
そこは、異世界だった。
その中は座布団が敷かれており、その周りにおもちゃやら本がたくさんあって宝物に溢れた、いわゆる「秘密基地」「隠れ家」みたく改良されていた。好奇心旺盛な子供だからこそ、すご~く憧れていた。その友達の家にお邪魔してはその「秘密基地」へ飛び込み、ドラえもんになった気分でいたものである。なので、狭いところは得意、むしろ好きなはずだ。
しかし、大人になるにつれ、「家」という空間がなぜか息苦しく感じるようになってしまった。
家でゆっくりするということよりも外の空気を吸って自然に囲まれて癒されたり、カフェ巡り~とかお買い物~とかしたりして、かつ、予定ギチギチの暇な時間ナッシング状態の方が「生きている」を実感できるようになってしまった。家にいるといろいろと考えたくないことも考えてしまったり、なぜか時間がもったいない…せっかくの休日…と思ってしまう。何を生き急いでいるのか。社会から開放されたいが故の行動である。大人にはなりたくないものだ。
だからこそ、このようなご時世になり休日も家で過ごす時間が増え、いったい何をしたらいいんだと逆に考えてしまう。
少し話が脱線するが、私は職種上リモートワークができないため、今でも電車に片道1時間ほど乗り通勤している。本当は避けたいが、やむを得ない。その電車に乗車している2時間、以前は睡眠をとっていたのだが、なんだかもったいなさを感じるようになり読書をし始めた。このような事態になる前からのことである。
私は、もともと本を読むことが好きじゃなかった。むしろ苦痛だった。
なんせ、根っからのアウトドア派。折り紙付きのアウトドア派。外で駆け回りたいアウトドア派。
とはいいつつも、「本屋さん」という空間はなぜか好きで落ち着けた。
無意識に本屋さんには通い詰め、本に囲まれに行っていた。わたしの癒しスポットである。そういう通い癖はみたいなものあったので、本とは近しい距離にあったのだが、本を手に取り裏表紙のあらすじを読んで面白そう!となりつつも、毎度その一冊を読み切れる自信が自分になく、その度に本をもとある場所へ戻してきた。特に買うわけでもないのに無駄に居座ってしまい迷惑な客で申し訳なかった。
そんな自分ではあったが電車で読書をしようと決意し、いざ尋常に本!と意気込み物凄い勢いで町の本屋さんに乗り込んだ。自分の体からメラメラと膨大な熱を発し、その周りの人も思わずアッツ!と言っていた(ように感じた)。話題・おすすめの小説のコーナーへ行き、君に決めた!!!と、一冊の本を手に取った。
それが、佐藤多佳子さんの”明るい夜に出かけて”という作品との出会いだった。
電車で読み始めると、今まで自分が勝手に築き上げていた読書への厚く高い壁が崩れていくのを感じた。まさに進撃の巨人だった。
なんだこれは。おもしろすぎる。
続きが気になり、電車のみならず家でも読むようになった。電車や「家」という空間にいながらも、あれ、私電車にいたの?家にいたの?と錯覚するほど、自分の性格と全く異なる主人公になりきり物語の世界へどんどんのめり込み吸い込まれていった。
本を読んで「世界が広がった」「狭まっていた視界が一気に開放された」という感覚を得たのは初めてだった。
物語から感じ取れることもたくさんあったし、共感共鳴することも多々あった。
だが、私には何より本を読むことで、自分が今まで接してこなかった世界があることにも気づかせてくれたのが一番大きかった。それに気づかせてくれたのがこの作品だ。
この作品に出会わなければ、一生深夜のラジオ番組を聞くこともなかったし、ましてやハガキ職人という存在も知らなかった。お笑いや漫才の楽しさに気づけなかった。自分の知らないあらゆる場所・拠点で別の世界が動いていることをリアルに感じ取れ、体験したことのない事を本を通じて体験できる。そして、現実でも体験してみることができる。宇宙を感じた。
こうして、「家」という空間にいながらも、本を読むことで以前より息苦しさを感じなくなった。外に出なくても、外の世界を知ることができる。体験することができる。
これが私の ♯おうち時間 (アナザースカイ風)。
Have a good stay home!(あってるのか)